一昨日は広島に原爆が投下されてちょうど60年、明日9日は長崎へ投下された日だ。政局は郵政法案の可決か、否決か(どういうもので、何が論争の焦点なのか、実はよく分かっていないが)で混迷を極めている最中、NHKの原爆投下60年についての特番もいささかかすみがちだ。ただ60年という節目だからだろうか、記憶としての被爆体験者の年齢の下限が70歳近くになり、どんどん進んでいく記憶の喪失と風化を目前に焦るものがあるからか、もしかすればこれまで私自身あまり番組にまともに向かい合って見てなかったからなのか、しかしいつものお決まりのパターンでなく斬新な制作がされているように思う。
被爆の悲惨さ → 核廃絶、戦争反対、ということに止まらず、しかし、その視点は基本にきちんと据えた上で種々の考察がなされている。原爆開発の経緯に始まり、原爆投下のほかに終戦に導く為の手段はなかったのか、それではなぜ原爆投下が決断されたのか、その理由は何でどう正当化されるものなのか、など意外に突っ込んだ内容である。
印象的だったのは、原爆投下機エノラ・ゲイの機長(名前は忘れたが)の言葉(これも正確には覚えてないが)で「私は、また同様の命令が下れば、また同じ様に任務を遂行するだろう。」というものだ。これは、別に原爆投下に限るものではなく、戦争一般に通じるもので多くの軍関係者たちの代弁だといえるが、自分が戦場でしたことは任務の遂行であり人殺しではないのだ、という詭弁でもある。そしてもう一つ印象的だったのは、一概に個人を非難することは出来ないものの、番組が人間が国家の小さな歯車(ネジという表現もあった)として右ならえで付き従っていくことへの警鐘を鳴らしていたことだ。
その警鐘という意味で9・11テロ以降米国の保守化の波はすごく歪で異常だ。今や米国民は平和を口にすることが愛国心に反すると目される。平和を希求し訴える催しものなどは開催しても閑散としているという。参加する、顔を出すことに周りの目が気になり、ためらいを感じるというのだ。
しかし、よくよく考えてみると日本が戦後60年間、平和、平和と言っていた間、米国はずっと戦時中であり、今もなお戦時の真只中にある。だからそういう状況は戦時中の日本を振り返ってみれば容易に想像はできる。でも逆に言えば、軍事国家の極みのようになってしまった米国において、この程度で済んでいるのはさすが米国民という感じがしないわけでもない。周りの目が気になるうちはまだいい。ただその感覚も後ろ向きに気にならなくなって来た時が怖い。