朝日新聞朝刊の紙上特別講義、今回は内田樹(うちだ・たつる)神戸女学院大文学部教授だ。大学で学ぶとはどういうことなのか、では逆に大学で学べないことはどういうことなのか、というようなテーマである。実は記事は切り抜きファイルだけして、「花はさくら木の感想」を午前中に仕上げたく優先したので読んだのは夕食後になってしまったが、読んでいて、ああ、これがあれのことかと思った。これがあれとは、以下のことである。
今日も午後はいつものウォーキング。途中休憩に書店を覗いたのだが、一昨日チラッと覗いた棚の隣が哲学書のコーナーで、こんな縁でもない限りは普通は素通りコーナーである。しかし、今日はちょっと足を止めてみた。足元から頭の上の位の高さまである棚のちょうど目の高さにある本は間違いなく哲学書だ。しかし本の書名までは記憶にないが、いずれも、これ一冊に著名な哲学者の著作のエッセンスが詰め込まれているとか、いまさら聞けない~式の本、更に全ページ漫画解説の本もあったりで、本来の専門書は、見づらい、触りづらい、買いづらい、と小売業の売るための鉄則3か条をひっくり返したような位置である。遠い昔、習ったことあるけど、何のことだたっけ、とか、仕事に追われるだけの毎日だけど、こんなのでいいのかな、とか、雰囲気的には初心者向けというよりは人生少し時間にゆとりが、精神的にゆとりが、お金は分からないけど、そんな人たちがターゲットであろうか。因みに、今書店の一等地に高齢者向けの脳力の維持強化を謳った各種の実践的な本が所狭しと並んでいる。中には小学生の算数ドリルじゃないのかな?というのさえある。
さて、話を戻すが、内田先生は「学ぶ」とは、たとえて言うなら『小骨が喉に刺さった状態が続くことです』 と言う。『分からない、だから、分かりたい。この思いがどこかに引っかかっていると、人間は無意識のうちに「分かる」ために役立ちそうな情報に反応し、集めるようになります。ちょうど、小骨を溶かす唾液の”強度”が上がって行くみたいな感じ』だという。知的にもやわらかいものばかり食べていると、これらを飲み下し、消化する能力を十分獲得できなくなる。少し固かったり、小骨の多い魚が出てくるとお手上げになってしまう。学問もそのようなものなのだ。
そして、もう一度あの哲学書コーナーを思い出してみた。あの、見やすい、触りやすい、買いやすい棚にある本を手に取ってみる人たちはどんな人たちだろうと。勉学意欲に満ちた人たちであることは間違いない。自分も含めて学生時代を思うと小骨、大骨があったり、どこかの勝栗みたいに固くて噛めねえ、の類はそこそこにして、プリンのごとくやわらかいぺらのプリント1枚程度でよしとした、そんな人たちが回帰してきている。そんな気がする。学問の学問たる部分はどこかに固い、刺さる部分がある。それをクリアーする能力を手に入れる。それが内田先生のいわれる「学ぶ」らしい。しかも、それは大学で獲得するものではなく『卒業後も、学生が自分自身で作り上げていくものなんです』という。学び始めるのに年齢は関係ない。よし、少~しだけ固いくらいで頑張ってみよう。そう思った。