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カテゴリ:■花はさくら木の感想( 115 )
2005年 11月 27日
時満ち満ちる
 更に時が満ち満ちる。青綺門院は娘智子にも自分の心中と同じものを感じ取っていた。その場を敢えて智子に譲るようにそっと立ち去ると、そこへ入れ替わるように智子が立ち、今そこにいるのは田沼と智子の二人だけとなった。智子もまた砂時計をひっくり返して小石の上に置いたが、この砂時計の砂が全て落ちれば、おそらく彼女もその場を立ち去り、この物話の全てが終わる。
 田沼の理想の下に数多の人が集散し中には儚くも命を落とす者もいた。しかし今、散り散りとなる彼等の心中は切なくも清々しい気に満ちているに違いない。それはこれまで起こったことの全てが愛の力がその源であって、その愛は常に無私の献身と信頼に姿を変え現実の力となって来たからである。
 この田沼の理想へ向けた歩みもこれから25年後に図らずも破綻を迎える。それが現実というものかもしれない。しかし、これは物語であって理想はあくまで理想だなどと言ういわゆる現実論、本音だけでは世の中いくら進歩はしても、決してよくはならない。
 菊の季節でこの物語は終わるが、現実も菊の季節を迎えている。菊の季節だからというわけではないだろうが、先日皇室典範改正案が明らかになった。後桜町天皇(智子内親王)に続く女性天皇は果たして愛子さまなのだろうか。ふとその姿をほほえましく思い描くのである。
【最後に】 「花はさくら木の感想」は文章を書くのが苦手、加えて何事も継続が苦手な私が勉強にと自らに課したことではありました。後半、登場する人物やもの事が出尽くしてくるのに従って、読み方が筋追い中心になってくるとどうしても筆が滞りがちになりましたが、途中ありがたい応援のメールなどもいただいて、曲りなりにも続けることが出来ました。次の連載がどうなっているのかは知りませんが、機会があればまた挑戦したい気もします。8ヶ月もの間お付き合い下さって本当にありがとうございました。
(第220話の感想)
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by kpage | 2005-11-27 11:18 | ■花はさくら木の感想
2005年 11月 26日
時満ちる
 琅かんは北風の地下城と共に水底に沈んだ。北風壮次郎は遠く南蛮へ去り、菊姫は青井と共に清国へ渡り、豊臣に繋がる身を自ら彼の地へ封印しようとしている。その二人の安全を担保するために、あの清明上河図も一緒に海を渡る。何もかもがいちどきに遠ざかろうとしている。それは本話のタイトルであるさくら木の、時が満ち一斉に花の散っていくような潔さを持ってである。
 第一話の冒頭で「花はさくら木」のさくらはそもそも宝寿院の美しい枝垂桜だという説を紹介し、では「ひとは武士」の武士は一体誰を指しているのだろうか、と問うていた。かつて、田沼は 『 無私の精神だよ。私利私欲のなさこそ、我々の力の源泉だ 』(関連記事)と言ったが、正にわが身を捨てたところに人の道を見い出す、いわば愛と言い換えてもよい真の武士道を語っているように思えてならない。青井に立花について 『 武士をこえた男だった 』 と言わしめたのもその愛ゆえだろう。
 それにしても、文字の消えた琅かんの謎と、北風壮次郎が天下取りの野望を持つに至った経緯は何だったのだろう。いずれの正体も不明のまま視界から消え去ってしまったのだが。
(第219話の感想)
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by kpage | 2005-11-26 14:51 | ■花はさくら木の感想
2005年 10月 30日
同じ恋の果て
 これまで北風に仕え、菊姫へも思慕を献身に代えて仕えて来た立花は、形から云えば青井と同様使命と恋のための戦いをして来たと言える。しかし、青井の使命と恋が一体のものであったのに対し、立花の場合は、彼が北風の元にあるうちは決して一体になるはずもない。それが立花の悲劇の始まりでもあった。
 北風から解き放たれた立花は菊姫のためだけに戦うが、一方青井には菊姫のみならず一体となった使命が背を後押しするのである。決着の差は技の差でもなく、僅かにそのような差だったのかもしれない。戦いを終えた青井の胸中は、ただ愛する菊姫のために命をかけた立花に対して、使命とは言えあろうことか空の銀箱で迎え撃ったという羞恥でえぐられた。そして今、そのえぐられた跡には立花の押し殺したような無念さがむなしく響くのである。立花の無念さを本当に理解しえたのは、共に菊姫を愛し、共に命をかけ戦った青井だけであるのだから。
(第192話の感想)
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by kpage | 2005-10-30 12:11 | ■花はさくら木の感想
2005年 10月 21日
経済とは経世済民
 三浦梅園については名だけは聞いたことがあるようなという程度で、それもおそらくは私が梅園と同郷 (同じ大分県という程度のことだが) であることが幸いしてだろう、偶然どこかで耳にすることがあったという程のことだ。
 梅園が非常にユニークな思想家(哲学者)であることや、前話で鴻池宗益が梅園より送られて読んだと言う主著 『玄語』 がかの時代、世界的に見ても非常に先駆的で、且つ稀に見る難解な(私には本当にチンプンカンプン)書物であることなどは、インターネットで調べて初めて知ったのだが、梅園にはもちろん他にもいくつかの著作があり、そのひとつに 『価原』 というのがある。
 『価原』 は近年その貨幣論が注目されているらしい。豪商鴻池宗益が 『玄語』 だけでなく、 『価原』 の方も読んで感銘でも受けておれば、少々世の中変っていたかも知れない。というのも、経済には2つの形態があって、当時の言葉で 『乾没(かんぼつ)』と『経済』と言い、乾没は相手から富を吸いあげる意で、「利をもって利とする」商賈(商人)の術、経済は経世済民、世を経め(おさめ)民を済う(すくう)の意で「義をもって利とする」王者の道である、と言う。そしてその経済のあり方を踏まえて、小川晴久という方が三浦梅園の経済思想の現代的意義として以下のような要約をしておられる。

(1) 真の富は貨幣にはない。それは生活財と我々の生に歓びと潤いを与える一切の物にある。
(2) 貨幣は有益な貨幣(交換手段)と犯罪的貨幣(利殖の手段)の二つがある。後者はすべての物の処刑者である。
(3) 貨幣はスマートに犯罪を犯す。しかし一度も司直の手にかかったことはない。
(4) 貨幣は多量に存在する必要はなく、多く回転させればよい。また紙幣にても可。
一考させられる。
三浦梅園研究所HPhttp://www.coara.or.jp/~baika/index.html
(第183話の感想)
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by kpage | 2005-10-21 15:48 | ■花はさくら木の感想
2005年 10月 20日
謙虚の力
 古来、巷に存する数多の神々への信仰は日本人の宗教観を特徴付ける大きな要素である。それは庶民の日常生活の様々な場面に生ずる不安や恐怖、または欲望や願望などに対して、一種専門性を持った神々が個々に見事な問題解決を見せることにより、庶民の信頼を獲得して来たといってよい。 一方、そのような自分の都合のよい神々とだけ向き合っておればよしとするような人間本位の信仰は唯一神の許すところではなく、田沼の言うように人間の幸福の総量があらかじめ定められた一定量であるかどうかはさて置いても、人間が唯一神と向き合う時、謙虚になれる(ならねばならない)というのは筋道としてはまことに正しいといえる。
 かつて田沼は自分のあまりに青臭い言葉に多少照れながらもこう言った。 『 無私の精神だよ。私利私欲のなさこそ、我々の力の源泉だ 』 と。かつてなく自由の気がみなぎる家治と田沼の時代である。幸福とは?との議論の必要性は承知しつつも、ともかく今のこの自由の気の高まりが、総量の定まっているかもしれない幸福の奪い合いを助長し、その結果として幸福の偏在を加速するのだと田沼の目には映っていた。そして彼の謙虚な無私の精神はそれをそのまま見逃すことが出来なかったのである。
(第182話の感想)
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by kpage | 2005-10-20 12:30 | ■花はさくら木の感想
2005年 10月 13日
再会
 田沼と志津については 『もう会うことはないふたりである。』 と第115話に書かれてはいる。しかし田沼と青綺門院のことは第63話で 『おそらく、もう再びまみえることはあるまい・・』 と書かれながらも再会を果たすのである。青井と菊姫の二人についても互いにもう逢うことはないと諦めつつも結ばれる運命を辿っている。嫁ぎ先の不思議な因縁(参照1参照2)も絡んで個人的にはきっとまた田沼と志津の再会はあるものと勝手な想像をしてるのだ。
 湖賊の根城は志津の嫁ぎ先饗庭の少し南に位置するが、いずれも同じく琵琶湖に面している。この両者に何か関係でもあるのかどうかは分からない。浜街道はこの湖賊の根城と志津のいる饗庭と湖面を挟んで対岸を通る。その湖面の遥か向こうにかすむ饗庭を臨み、志津に思いを馳せる田沼の切ない姿が目に浮かぶようである。
(第175話の感想)
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by kpage | 2005-10-13 09:24 | ■花はさくら木の感想
2005年 09月 29日
八軒屋
 宇治川の流れは随分早くて水量も豊富だ。昨秋、静かな水に浮かぶ宇治平等院のゆったりとしたたたずまいを見学したあと、直ぐそばを流れるこの川を見たのだが、その意外な荒々しさ、その対照的な様相にびっくりしたものだ。 『 このぶんやったら、昼前に八軒屋に着くやろう 』 と船頭が胸を張って請合うのもうなずける。
 因みに、このブログのヘッダーの背景画像 (背景デザインは気分でころころ変えますのであしからず) は昨秋のその折に平等院の境内で撮ったものだ。また本文タイトルの背景の丸い瓦の方は三年前に撮った京都竜安寺の石庭を囲む土塀の瓦である。
 さて田沼一行を乗せた船が向かった八軒屋とは、当時は八軒屋浜とも呼ばれ、現在の天満橋から天神橋にかけてを言うらしいが、伏見、大坂間を結ぶ船の発着場として賑わったところである。また紀州熊野詣や四天王寺詣の際の上陸地であり、熊野街道の起点でもあった。
 この八軒屋浜の名を由来とし、かつて八軒屋の屋号で事業を興されたという、大阪コピーライターズクラブ会長でもある井上道三氏(72)が八軒屋南斎のペンネームでイラストやエッセイを発表されているユニークなホームページがある。何がユニークかと云えば字が縦書きなのである。もちろん氏のほのぼのとしたイラストと軽妙な文章が一番の魅力であるのだが。
URLは http://www.nansai.net/ である。
(第162話の感想)
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by kpage | 2005-09-29 11:28 | ■花はさくら木の感想
2005年 09月 26日
眼下の敵
 『天下取りの中心に、菊姫をすえるのや!』 、初めて北風本人の口から菊姫を奪った目的が語られた。しかしその理由は単なる野心とも思えない。それは以前にも少しふれたが(参照)、『生まれた土地を特定できない男』 と書かれてある通り、北風の出自にやはり秘密が隠されているような気がする。眼下の田沼一行が易々と閘門を通過していく腹立たしさを押しこらえ、際し当たる事態にも目もくれず、しかし視線はしっかりと一歩先を見通しているような不敵な様子の北風がそこにいた。
(第159話の感想)
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by kpage | 2005-09-26 10:02 | ■花はさくら木の感想
2005年 09月 18日
清明上河図
 いよいよ清明上河図がその姿を現した。皆がてんでに驚嘆の声をあげる。さて、これ(参照)を見るとそれが非常に緻密に描かれているのはよく分かるが、どう見ても私たちが思う写実とは違う。それは多分現場を見つつ写生したのではなく明らかにパターン化された描き方だ。しかし、これを見て主水に 『金雲たなびかせて端折ろうなんてことをしない。ぜ~んぶ描きつくす、そういう気概や』 と言わしめたほどの綿密さにはあきれるほどだ。前半分がない馬の、上半身、下半身しかない人物の全身が先ほどは見えていたような、そんな感覚に囚われた主水らである。まさに目に見えない幽霊が見えたような、目に見えないものが描いてあるように見えたような、決して現実を忠実に丸写しにした絵ではないが、背後に町の喧騒や個々の人の営みが見えてくる。見えないものが見えてくる。強引に前回の記事に則して云えば、それが作者の描きたかったことであり、それが写生であると云えようか。
(第151話の感想)
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by kpage | 2005-09-18 23:33 | ■花はさくら木の感想
2005年 09月 14日
写生
 見えないものを写すとは、幽霊のように見たことがないもの、現実に存在しないものの姿をあたかも見ているかのように描くことであるが、更に云えば現実に存在しようがしまいが、本当に写したいものは実はその描いたものの背後にある見えないものだ、という詭弁のようなものではないか。写生とはそういうことを積極的に意図するものだとすれば、写生は必ずしもいわゆる写実ではない。再登場の蕪村の句、 『 夏川を越すうれしさよ手に草履 』 の字面は決して写実的でもなんでもないが、何か生き生きとしたものが伝わって来る(記事参照)。文字通り、写生である。云うなればミロやピカソも絵画の世界の俳句みたいなものであろうか、全て合い通じるものがある。
 人間が頭でイメージしうるものは必ずこの世(地球上とは限らないが)のどこかに存在するものだとはよく云われることである。それは人間がそもそも創造主の自らに似せた創造物であるがための恩恵に発していることなのだろうか。更に言えば、人間にはまだ目には見えないものや状況をしっかりイメージし見据えることで、それらを現実のものとして獲得することが約束されているかのようだ。
 田沼は云う、『なるほど、胸のうちか。では、目にはみえないものも写すことができるわけだ』 と。今はまだ目には見えないが、田沼の胸のうちには鮮明にイメージされた野望の数々が現実のものとなるべくうごめいているに違いない。
(第147話の感想)
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by kpage | 2005-09-14 10:45 | ■花はさくら木の感想


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