本日の朝日新聞の文化欄に面白いというのは失礼かもしれないが興味深い記事があった。昨日私も触れた著作権に絡む話題である。タイトルが『フラダンスにも「著作権」?』となかなかセンセーショナルだ。要するに世界各地の伝統文化といわれるもの(記事から察するに有形、無形を問わず)にも「著作権」があるというものだ。論争の舞台はジュネーブにある世界知的所有権機関(WIPO)である。
昨年秋結婚した私の姪が新婚旅行にオーストラリアに行って来たのだが、そのお土産にと送って来たものの中に、先住民アボリジニの伝統的な絵画(デザイン)をモチーフにしたコースターのセットがあった。また昨年、嫁さんと北海道に行った折、伝統的なアイヌの集落を復元したポロトコタンというところへ行ったのだが、楽器の演奏や、歌や、踊りなどいろいろなものを見学した。そして土産物屋へ行けば、あの独特のデザインの施したいろんな調度品があったり、その時演奏を聞いた楽器なども当たり前のように売られていた。おそらく、そういう意匠などの使用はそれなりのルールにのっとって行われているのではと推察するが、世界的にみると、『伝統文化が不正に使用されている。法的拘束力のある国際的な保護の仕組みを早く作るべきだ』とする意見が特に発展途上国から主張され始めているという。多くの先進諸国はその意見には反発してるらしい。私もそれを著作権の問題とすべきなのかどうかすこし疑問に思っている。『背景には南北問題も潜んでいる』らしいと記事にはあり、ああ、なるほどと思った。
しかし発展途上国としては「伝統文化が不正に使用されている」だけならまだ冷静に交渉しようではないかと、なるのかもしれないが「伝統文化が間違って使用されている」としたら・・。マリオ族の例を挙げると、『我々の文化は入れ墨一つにも意味がある。十分な知識なしに、まねされ利用されると、我らの祖先を侮辱されたように思ってしまう』ということだ。ハリウッド映画のみならず香港映画でさえ違和感を感じる日本人像や風習。あれを想像していただければ彼らの憤懣やるせなさもよく理解できるというものだ。ヤンキースの松井がチームメートとよく意味もなく手を合わせお辞儀しあって喜んでいる姿を、何とはなし情けない感じを持ってみているのは私ぐらいなものだろうか。
伝統文化といわれるものは、それがかの地の伝統である理由があるわけであり、またこれをきちんと正しく末裔まで伝えて行かねばならぬという大儀もある。儲かればいい、面白ければいい、楽しければいい、とばかり放っておけば、例えば世界中に変な日本人が増殖してしまう。日本人がそれをあまり怒らないのは寛容な国民性なのか、経済力に威を借りた張子の余裕なのか。いずれにせよこの問題は『恩恵を受けてきたのはコンテンツ産業を抱える先進国だという思いが途上国側にある』ことなのだ。各コンテンツ産業がマナー、良識を遵守するという方向性を各国間できちんと認識すべきである。
マリオ族のパフォーマンスは愛知万博でも実演中だ。